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ホテルマルエ ブログ (岩手県釜石市)

 

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釜石の平岩(平石、白石)堤防

明治頃につくられた釜石市大渡町付近甲子川の堤防について

大正2年1913年の釜石(大渡)甲子川

大正2年1913年の釜石(大渡)甲子川


 現在『汐立ポンプ場』の工事がすすでいます。これは大雨による釜石市街地、東部地区の冠水被害からまもるための排水ポンプ場の工事です。
2018年3月釜石市市街地冠水(ホテルマルエHP内)
釜石市市街地東部地区はもともと海、砂浜の埋立地であり、昔から洪水被害を受けてきたようです。当時から災害への対策は行われており、明治時代に平岩堤防(当ホテルマルエの場所付近)という堤防がつくられたそうです。おそらく地域の人もここが堤防ということを認識している人は少ないかと思います。
現在の釜石甲子(大渡)川

現在の釜石甲子(大渡)川


 
『旧甲子道歴史散歩』によると
・大渡川の河流は平岩(八幡神社の南下、大渡川にあった広い岩)より少し下流から真東に釜石市街にながれ、税関のところで海に注いでいた。
 ・平岩堤防とは、釜石市街地東部地区の洪水災害が多いため、明治の頃にその平岩から製鐵所の『三の橋』付近の間に堤防を築いて現在の経路になった。
・明治から大正にかけては、大渡川の氾濫で決壊することがあったが、大正末期に抜本的大構築により決壊しなくなった。
・平岩の上には『瀬川供養塔』があり、艦砲射撃のあとに場所が移された。
とあります。
 
当ホテルマルエの周辺の歴史でもある、 平岩甲子(大渡)川, 平岩堤防瀬川供養塔についてしらべてみました。

◇平岩について

書籍には、"平岩は現在の八幡神社の南下に『平岩』という高くはないがかなりの広さをもった岩があった。"とあります。
昭和5年の地図には平岩らしきものが書かれています。この辺から別の甲子(大渡)川河流があったようです。
昭和5年1930年の釜石市甲子(大渡)川の地図

昭和5年1930年の釜石市甲子(大渡)川の地図

 
昭和20年米軍による艦砲射撃前の航空写真。平岩らしきものが写っています。
*郷土資料館にて『戦災資料展』が開催中です。艦砲射撃前の航空写真等が展示されています。三角岩は川遊びの飛び込み台のような遊び場だったようです。
・郷土資料館ホームページ  http://www.city.kamaishi.iwate.jp/mobile/kyoudo/index.html
2018年7月平成30年度釜石市郷土資料館企画展(ホテルマルエHP内)
昭和20年1945年の釜石市甲子(大渡)川の地図

昭和20年1945年の釜石市甲子(大渡)川の地図

◇甲子(大渡)川について

江戸末期の地図をみると、甲子(大渡)川が大きく北に枝分かれしていることが分かります。ホテルマルエは川の中?
*2011年の東日本大震災の時、ホテルマルエで使用していた地下水ポンプが破損、井戸の掘りなおしをしました。数mの深さから津波特有の黒い砂が出てきたのを覚えています。ホテルマルエは川の中か砂浜だったのかもしれません。
江戸末期三閉伊通海岸整正分間絵図

江戸末期三閉伊通海岸整正分間絵図


 
『上閉伊郡志』(大正2年)に当時の詳細が記載されていました。
"釜石町中心市場の存在する辺は、近代まで海水の浸入する所にして、往時(昔は)大渡川は西郊白岩(平岩のこと)の地より東折し、今の薬師下より只越を過ぎ場所に至りて海に入れりかくてこの河東の低地は海水深く侵入し、場所の狐崎舘(現市役所の裏山)下位東は少かに退潮に際し辛うじて通過しえるこご拾も親不知の險(険)を髪髴(彷彿)せしむるに足るものあり
~中略~
町の北端なる臺村(台村)の丘地は亦瀬海の區(区)にして尚ほ鹽竈(塩釜)の痕を存す、然るに一は大渡川の沈積に依り、一は人爲なる背後山丘を崩下せる埋立てにより漸次(次第に)陸地の面積をし、現在の低地一帯を形成せられたるなりごいふ以て滄桑の変(世の中の移り変わりの激しさ)を想ふべし"
釜石市街地東部地区はほとんどが海辺であり、その埋め立ての変化がいかに急だったのかがわかります。
 
 『釜石風土記』(昭和22年)には
"現在の釜石市の大部分は、中世頃まで海波の寄せるままにまかせていたが、大渡川の沈積と海岸砂浜の擴大とによって、次第に陸地を形成するようになったもので、其の上更に何度も後方の山を切崩して埋め立ててできたものである。
~中略~
昔は大渡川の水かさが増してくると町民総出で平岩堤防を護(まも)った。それは平岩堤防が決壊しようものなら、河水が忽(たちま)ち市内に氾濫する懼(おそれ)があったからである。大渡橋の大渡寄りの土堤は立派な松並木であった。"
 
別の資料をみてみます。
『ふるさと小川』より 地図の詳細時期は不明
これをみると、釜石市市街地東部地区だけでなく、中妻~定内の流域も変化したことがわかります。甲子(大渡)川は、八幡神社から曲がり現在の市営ビル周辺にたどりつきます。
小川川と甲子川の流域の変化

小川川と甲子川の流域の変化


 
『釜石市誌』より 明治から大正の洪水を抜粋してみます。
明治32年10月17日(1899年)大暴風雨、洪水を伴いて大いに作物を害し大豆の収穫皆無
明治34年10月8日(1901年)八日九日洪水、六の橋下の車道切れ、畑の流失多し
明治40年8月18日(1907年)強雨洪水、六の橋張切二十間切れ、甲子村釜石町境界サイカチ樹午後二時流失
明治42年4月6日(1909年)大洪水、四月六日より七日間にわたる風雨は近年希にみる大洪水となる。
明治43年8月12日(1910年)大洪水、未曾有の暴風雨となり、十二日より十五日に至る間最も甚だしく、往来の出水五尺に及び、老幼者を救出する騒ぎとなり、家屋の流失、浸水をはじめ、流失耕地など甚大な被害となる。
 
大正時代の洪水の記載はありませんでした。

◇平岩堤防について

釜石市街地東部地区は埋立地であり、水害が多かった。そのために川の流れを変える大規模な治水工事をし、平岩堤防が出来た。というところまで分かったのですが、その平岩堤防が、いつどのような工事をして出来たのか、その資料が見つけられませんでした。明治後期にかけて洪水が多発していることから、その時期に平岩堤防の治水工事が始まり、大正時代にはほぼ完成したと予想します。
 
全体像だけでも色別標高図で調べてみます。 
八幡神社から三の橋にかけて3~5mの黄色い標高色の高さが識別できます。八幡神社南下から曲がっていた甲子(大渡)川を平岩堤防の盛土でせき止めたようです。現在港町で工事中のグリーンベルトのような盛土堤防だったのかもしれません。
釜石甲子(大渡)川色別標高図

釜石甲子(大渡)川色別標高図

◇瀬川供養塔について

瀬川とは鮭川のことで、鮭の供養塔のようです。明治末期に作られ平岩の上に建てらましたが、艦砲射撃後に八幡神社下に移され、現在は三の橋のたもとに位置しています。
 
瀬川供養塔の石碑

瀬川供養塔の石碑


 
この甲子川(大渡川)は別名『千川』ともよばれ、一日に千匹以上鮭が遡上する東北でも有数の漁場だったとのことです。昭和初期には、この平岩の上に獲れた鮭を干す光景が見られたそうです。
 
また釜石の地名の由来にアイヌ語で『カマウシイ』(平らな岩盤、平岩?があるところ)からきている説もあります。またそれとは別に、甲子町日月神社奥の院にある元禄の碑には、甲子村のはずが釜石村とあります。甲子村の山側から釜石の地名が?釜石地名の由来も調べてみ見たいところです。

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