平成30年度 釜石市郷土資料館企画展第一弾開催中
平成30年7月11日~8月31日 開催期間中は毎日営業
開館時間 9時30分~16時30分(最終入館:16時まで)
昭和20年7月14日、釜石は艦砲射撃により壊滅的な被害を受けました。釜石市郷土資料館では、当時の体験談や艦砲射撃の貴重な資料を展示しております。早速観覧しに行って来ました。
・釜石市郷土資料館ホームページ
http://www.city.kamaishi.iwate.jp/mobile/kyoudo/index.html
大きな古地図。『釜石市防空計画要図』昭和18年3月調整とあります。釜石艦砲射撃の2年前、すでに市の防空計画があったことが分かります。当時の実際の要図が展示してあり、たたみ一枚分くらいある大きなものです。防空壕や退避施設などを整備するための計画図だそうで、2年前からの覚悟と緊迫感が伝わってきます。
●要警護施設 ■特別防護区このどちらかが防空壕の場所なのかもしれません。
市内各所に●と■が見つけられます。
昭和19年11月以降は掩蓋(えんがい)式防空壕120箇所、横穴式防空壕12箇所が完成したとあります。
総務省 http://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/tohoku_03.html
掩蓋式とは、竪穴に蓋をしたような防空壕のようです。
昭和20年6月29日米軍撮影空中写真釜石地区とあります。この約2週間後に艦砲射撃が行われました。
昭和22年に作られた被弾痕跡圏。市街地は大火になったそうです。
*釜石製鐵70年史より
◇当時の釜石について
郷土資料館を観覧している釜石市東部地区出身の古老ともお話しすることができました。艦砲射撃前に疎開してしまい、戦況の話はわからないとのことでしたが、当時の釜石のお話をお伺いすることが出来ました。
・『二の橋』と『六の橋』について
*釜石には現在も『三の橋』『五の橋』『七の橋』『八の橋』が現存しています。昔は『一の橋』からはじまり、大橋町まで順番に橋があったそうです。
詳しくは郷土資料館にある書籍『釜石の橋めぐり』でご覧になれます。
古老によると『二の橋』は現在の只越町周辺にあり、製鐵所構内と街中を行き来できる門のところにあった。野球をして遊んでいる時に、ボールが壁をこえ構内に入ってしまうと、その『二の橋』にいる門番にひどく怒られながらボールを返してもらっていた。とのことでした。
さらに駒木町、甲子川(大渡川)では、
釜石駅の北側、駒木町周辺の川岸は水量が豊富でよく泳ぎに出かけていた。三角岩という大きな岩があり(おそらく書籍では平岩とわいれている)そこから飛び込んだりして遊んだ。駒木町の道はとても細く、現在のように整備されていなかった。洪水も多く、よく川が氾濫した。製鐵所幹部の社宅は米軍の施設になった。青葉通りは大火をさけるために拡張された。とのことでした。
調べてみると確かに洪水は多くあったようで、『五の橋』が危険になると、隣にある『中島橋』を迂回路として利用したこともあったようです。また、洪水による死者を弔う『大円鏡智為供養塔』が駒木町にひっそりと今も残っています。
この場をもって、その古老と郷土資料館に貴重な資料とお話を伺え感謝いたします。釜石へおこしのさいは、是非郷土資料館にもお立ち寄りください。
一の橋と二の橋
六の橋』は展示している『釜石市防空計画要図』に明記されていました。橋の残存機関が短く、『六の橋』が地図上に残っているのは珍しいかもしれません。
さらに駒木町、甲子川(大渡川)では、
釜石駅の北側、駒木町周辺の川岸は水量が豊富でよく泳ぎに出かけていた。三角岩という大きな岩があり(おそらく書籍では平岩とわいれている)そこから飛び込んだりして遊んだ。駒木町の道はとても細く、現在のように整備されていなかった。洪水も多く、よく川が氾濫した。製鐵所幹部の社宅は米軍の施設になった。青葉通りは大火をさけるために拡張された。とのことでした。
調べてみると確かに洪水は多くあったようで、『五の橋』が危険になると、隣にある『中島橋』を迂回路として利用したこともあったようです。また、洪水による死者を弔う『大円鏡智為供養塔』が駒木町にひっそりと今も残っています。
この場をもって、その古老と郷土資料館に貴重な資料とお話を伺え感謝いたします。釜石へおこしのさいは、是非郷土資料館にもお立ち寄りください。
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